「信じられないことが起きてるのを信じれるかい」  

 

俺の話す未来のことは、誰も信じられない

家族や恋人であったってそうさ

未来に目を輝かせる俺にかける言葉は

「無理しすぎない程度にね」

優しさをありがとう

皆は、目の前に、俺の話していた未来が現れるのを

いつかみることだろう

誰にもイメージできないものが

俺の頭の中にはある

確信がある

 

とても昔じゃ考えられないことが起きている

仕事がない男だとは思えないほどに

風のことや、太陽のことに想いをめぐらせられている

 

物事は0になったように思えるけど、

もともとあったかも定かじゃない

 

万歩計が1の数を示すのは今このときさ

 

量子の世界じゃ、すべてがバカバカしく思える

映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」評論~芸術があるということは~

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映画界は今、実在の人物を元にした作品(ボヘミアン・ラプソディロケットマンなど)が席巻している。次々と作られるそのような作品群の中に「永遠の門 ゴッホの見た未来」はあるが、人物に対してのアプローチ法はまったく新しいものであり、深い感動を与えるものであった。

 

監督は「バスキア」「夜になる前に」「潜水服は蝶の夢をみる」のジュリアン・シュナーベル

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バスキア」「夜になる前に」共に、実在する作家(画家・小説家)を題材にした作品である。ある種得意な、作家を描く作品で今回、監督(ジュリアン・シュナーベル)は「フィンセント・ファン・ゴッホ」を選んだ。

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監督(ジュリアン・シュナーベル)は映画「バスキア」作品冒頭で、

「人はゴッホという船に群がる。

危険だが皆が乗りたがる船だ。

貧困の天才が屋根裏で絵を描く図は、商売の宝庫だからだ。

ゴッホはこの神話を世に浸透させた。

生前売れた絵はわずか一枚。もらい手すら皆無。 あれほどの天才を人は無視した。

 以後の美術界はそのことへの後悔が根底にある。

第二のゴッホを見逃してはならないと──」

と語る。

監督(ジュリアン・シュナーベル)にとって「フィンセント・ファン・ゴッホ」の映画を撮ることは特別な意味をもつものであるに違いない。

「永遠の門 ゴッホのみた未来」という作品は、見事に監督(ジュリアン・シュナーベル)にしかえがけない作品であり、新しい感動の道を私たちに見出した。

 

そんな「永遠の門 ゴッホのみた未来」を3つのポイントにわけて、おすすめしたい。

 

・2時間画面をもたせられる男 ウィレム・デフォーのすごさ

 

・監督(ジュリアン・シュナーベル)の画家だからできるゴッホ解釈

 

・まとめ 芸術があるということは

 

・2時間画面をもたせられる男 ウィレム・デフォーのすごさ

 

「永遠の門 ゴッホのみた未来」のゴッホ役は、ウィレム・デフォー

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スパイダーマン」のゴブリン役、「グランドブタペストホテル」での掃除人など、熱烈なファンの多い俳優である。

「永遠の門 ゴッホのみた未来」は、ゴッホウィレム・デフォー)を2時間追いかけ続ける映画と言っても過言ではない。ということは、ゴッホ役を演じる人物は、2時間画面に映っていても、飽きさせない存在感が必要だ。これが映画というものの主演になることの難しさでもある。どんなに美しかろうが、恰好がよかろうが、画面を持たせられなければ主役にはなれない。

皆さんの好きな俳優を思い出してほしい。その俳優は、たたずんでいるだけで絵になるはずだ。その点で、ウィレム・デフォーという俳優は完璧だった。

ゴッホは当時30代で、ウィレム・デフォーは現在60代。演じるには年が離れすぎているように思えるが、監督(ジュリアン・シュナーベル)いわく、あのときゴッホはすでに疲れ切っていたという。この年の差のある配役は、表現として見事に結実し、泥にまみれながらも、真実を探し求めるゴッホという人物を画面の中におさめた。

ウィレム・デフォーは監督(ジュリアン・シュナーベル)から実際に絵を習い、作中、絵を描いており、その筆の置き方はリアリティを感じさせた。

作中、ゴッホウィレム・デフォー)は、絵の題材を探し求め、とりつかれたように歩き続ける。撮影監督のブノワ・ドゥロームが歩くゴッホウィレム・デフォー)をあまりにも追いかけ続けるので、監督(ジュリアン・シュナーベル)は撮影監督(ブノワ・ドゥローム)を呼び戻すのが大変だったそうだ。

 

クエンティン・タランティーノは、主演についてこう語る

「主演の仕事の一つは、演技によって映画を導くことだ。」

 

ウィレム・デフォーは、その演技によって現場に火をつけ、作品の結実へ導いたのである。

 

 

2.監督(ジュリアン・シュナーベル)の画家だからできるゴッホ解釈

一般的にゴッホについてよく語られる話は、

「自分の耳を切った」とか「人生で一枚しか絵が売れなかった」などゴッホの逸話について語られることが多い。

そんな人生から「狂気の作家」だとか「精神病的な絵」「ミミズの這った絵」などと解説されることも多い。

これは作家の人生から、作品を読み取るという解釈法である。(美術館の音声ガイダンスなどでよくきく方法)

だが「永遠の門 ゴッホのみた未来」は、人生~作品への解釈の流れではなく、作品~人生の流れでの解釈を行った。

 

人生~作品の流れで、解釈を行うと、「こういう人生だったから、こういう色をよく使う」という人生からの解釈になる。

作品~人生の流れで、解釈を行うと、「こういう絵を描くなら、こういう人生だったのではないか」という作品からの解釈になる。

 

監督(ジュリアン・シュナーベル)はインタビューにて

「私はフィンセント・ファン・ゴッホを可哀そうな人だとは思っていない」

と語っている。

 

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ゴッホは、生前絵が一枚も売れず貧困であり、精神病にも悩んでいる。だが、監督(ジュリアン・シュナーベル)はゴッホへの一般的な「生きている間に恵まれなかった可哀そうな人」という評価を否定する。それは、監督(ジュリアン・シュナーベル)がゴッホの人生だけでゴッホを測るのではなく、作品からゴッホを感じようと試みた結果なのではないだろうか。

そのため、映画にえがかれるゴッホは、絵をかくことに価値を見出し、絵を描いていることに解放感を得ている。「自分のやるべきことをみつけ、それに没頭する人」そんな人物を可哀そうな人とわたしたちは言えないだろう。

新たな方法論によって「永遠の門 ゴッホのみら未来」は、新たな感動を与えてくれる。

 

3.まとめ 芸術というものについて

この作品中、ゴッホウィレム・デフォー)は、未来のために描いている。と話している。

日本でもゴッホは大人気で、何度も展覧会が開かれる。私たちは、過去の人であるゴッホの描いた絵に感動するのである。つまりゴッホの描く絵は、「永遠の門」なのである。過去も未来もなく、人々を感動させる。人々をつながらせる。

監督(ジュリアン・シュナーベル)は今回の映画でそれを伝えたかったように思えた。

そして、私は芸術というものもまさにそのようなものだと思った。

ある人物が感じた、美しいという感情とそれを起こした対象をえがき出し、人に伝えようとする。またそれに感動したものが、その感動とそれを起こした対象をえがき出し、人に伝える。それが芸術だ。

今回の映画では、ゴッホの絵の感動が、監督(ジュリアン・シュナーベル)に伝わり、「永遠の門 ゴッホのみた未来」となって私に伝わった。そして、今このように評論を書き、人へ伝えようとしている。

もしかしたら、ゴッホが伝えたかったこととは違うかもしれない。

だが、素晴らしさを感じた時、私はそこに私の本質を感じた。

「われ思う、故にわれあり」

である。

この映画はみた人の心を揺り動かし、貴方の感覚(本質)というものを感じさせる。

感覚へまっすぐと、不器用に進んでいったゴッホが題材だからこそ、それは可能になっている。

 

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「マッドマックス 怒りのデスロード」評論~マズローの五段階欲求~(ネタバレあり)  

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~あらすじ~

 

核戦争後の荒廃した世界で、地下水の豊かな土地があり、イモータルジョーという男が独裁的なコロニーを形成していた。

そんなコロニーの中の部隊を指揮するフェリオサがジョーを裏切り、ジョーの女とともに「緑の地」を目指し、逃亡する。

ジョーは軍隊を指揮し、これを追いかける。

主人公であるマックスは彼らにとらえられ、血液バンクにされているので(荒廃した世界では血液も重要な資源)、ここにからんでくることになる。

 

マズローの5段階欲求~

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マズローの5段階欲求とは、マズローが5段階のピラミッドで示した人間の欲求です。

満たされると次の欲求へ移行するとされている。

「マッドマックス」は世界が荒廃しており、そんな世界では欲求がわかりやすくあらわれる。そして、マズローの5段階欲求と照らし合わせてみると、人々の欲求の変化がわかりやすい。

 

 1.フュリオサ

 

2.マックス

 

3.ニュークス

 

 1.フュリオサ

フュリオサは、ジョーを裏切り、彼の妻たちをトラックに乗せ「緑の地(グリーンプレイス)」へ向かう。

妻たちは今の環境(ジョーの与える環境)が安全ではないと感じ、フュリオサの話す安全な土地「緑の地(グリーンプレイス)」へ向かうことにする。マズローの5段階欲求の「安全欲求」の階にあたる。

では、フュリオサも同じように「安全欲求」の階なのか?

一見すると、そのように思えるが、フュリオサは安全欲求の段階の、「自己実現」の段階にあると推測される。

あるシーンでフュリオサはマックスの問いに対し、

フュリオサ:彼女たち(ジョーの妻たち)は希望にかけた。

フュリオサ:私は過去を清算する。

 

妻たちは、安全欲求がみたされることに希望をかけ行動しているが、

フュリオサは、妻たちを「緑の地(グリーンプレイス)」へ連れて行き、救うことにがジョーへの復讐と考え、行動している。

これはまさに「自分の能力を最大限に生かしたい」という自分の思いから発生する動きである。

妻たちのなかには安全欲求が満たされない可能性があるとわかると、ジョーのもとへ戻ろうとするものがいたが、フュリオサが導くことで彼女たちも肝が据わっていくごとに、自己実現の領域にそれぞれ達していく。(社会的欲求や、承認欲求は仲間がいることで満たされている)

その中の一人は、「緑の地」で出会ったものが抱えていた種を守ることが自分の使命と感じ、守ろうとする行動をしていた。

最後にはフュリオサのジョーへの復讐は達成され、フュリオサは新たな目的のために生きるのである。

 

 2.マックス

元警官のマックスは、救えなかった命の幻覚に悩まされながら、荒野をかけていた。

マックスはウォーボーイズ(ニュークス)の輸血袋として車につながれ、フュリオサの逃走にからむことになる。

そのなかでマックスは、フュリオサからトラックを奪うことに成功し、トラックにあった水をがぶ飲みする(生理的欲求)

その後、トラックに乗り込み、フュリオサたちを置き去りにして発進しようとする(安全欲求)

だが、トラックはフュリオサの改造により、発進の際にとある順序を踏まなければ発進できない仕様になっており、仕方なくマックスはフュリオサたちと共に「緑の地」へと向かうことになる。その後、マックスはフュリオサたちと共闘し生き延び、「緑の地」のあった場所へ着く。そこには「緑の地」がすでになくなっていたために、フュリオサたちは安全な土地を求めて旅立つことにする。そのときにマックスはフュリオサから「一緒にくるなら歓迎する」と言われるが、マックスは共行こうとしない。

これは、マックスが救えなかった命に罪を感じ、「社会的欲求」や「承認欲求」を我慢することで自分への罰になると考えていたからではないだろうか。

だが、マックスは救えなかった命に罪を感じる男である。そのため、フュリオサたちの旅立った先に安全な場所はないと知っていたため、フュリオサたちを救うため、彼女たちに一時的に手を貸す。フュリオサたちは仲間になったと思ったようだが、マックスは一時的なものと考えていた。それでも、一時的にとはいえ「社会的欲求」や「承認欲求」が満たされることはマックスにとって幸福な時間であったのではないだろうか。

ラストシーンでは、安全な土地を手に入れたフュリオサたちを遠巻きにみつめ、去って行く。これはまたマックスがマックス自身に与えた罰による行動であろう。

 

3.ニュークス

ニュークスは、イモータンジョーを崇拝する「ウォーボーイズ」の一人である。

ウォーボーイズは元々、汚染によって短い命であり、その命に意味を持たせたいと動いている。ジョーはそんなウォーボーイズに、自らのために動けば「価値ある存在」だと教える。そのため、ジョーのためならば死にすら飛び込む。

死ぬことが恐ろしくない人間はいない。きっとウォーボーイズは目の前の恐ろしい死を忘れ去るために、あえて死に飛び込むのではないだろうか。

ニュークスは、「生理的欲求」や「安全欲求」などを忘れ去るように教えられている。

それはジョーの二つのセリフからみてとれる。

「水を求めるな、禁断症状で、生ける屍となるぞ」(人々にジョーが水を与える冒頭シーン)

「お前の魂は、英雄の館へ 俺が運んでやる」(妻の奪還に際し、ニュークスに語りかける)

「社会的欲求」は、ウォーボーイズにいることで満たされるので、

ニュークスを含めるウォーボーイズは「承認欲求」を持っている。(命をかけるときにウォーボーイズは「おれをみろ」と叫ぶ)

そんなウォーボーイズの一人ニュークスも、ジョーのためにフュリオサを追う。その中でジョー本人から妻たち奪還に際し「」と承認欲求を満たす機会を得る。だが、ニュークスは失敗し、ジョーから失望される。さらにはジョーの妻が死に、ニュークスは絶望する。彼は唯一の生きる目的であった欲求が満たされないことを感じてしまったのである。そんなとき、妻の一人がニュークスをみつけ、彼に仕事を与える。

ニュークスは満たされないと絶望した承認欲求が、ふたたび満たされる可能性を感じ、すべてをささげる。彼はラストシーンで「おれをみろ」と言うが、それは今までのようにジョーや仲間に向けたものではなく、自分をみつけてくれた女にたいして言った言葉であった。

 

 

~まとめ~

「マッドマックス 怒りのデスロード」は、ストーリーがシンプルで、それぞれの望みが全て物語の一点に集中しながら進んでいく。それがすさまじいエネルギーの凝縮としてみえるので、熱量のある作品にしあがっている。

今回挙げなかったキャラクターたちもそれぞれの欲求をもっており、それがきちんと描かれている。これはまぎれもない傑作である。

 

 

 

 

チャップリン監督作品「モダン・タイムス」映画評論~喜劇と貧困の親和性~

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~あらすじ~

経済が不況で、失業者が街に溢れている。チャップリンは生きるために、働くが、大量生産を推奨する会社は人々を機械のように無機質なものとして扱う。

チャップリンはユーモアによってその社会を我々にわかりやすく笑い飛ばすのである。

 

 

~考察する前に、喜劇について~

喜劇というのは「キャラクターが自分の意思で自分の動きを制御できない」ことである。

たとえば、頭に物がぶつかってきて痛がったり(無表情で我慢できたら面白くない)

どっきりなどを仕掛けて、人が思い通りに驚いてくれたら面白いのは「相手が自分の意思で自分の動きを制御できない」からである。

このことを覚えておいてほしい。これからこれを踏まえて「モダン・タイムス」を考察していきたい。

 

1.ベルト式大量生産

 

2.デモに巻き込まれ、刑務所へ

 

3.少女に薦められ、唄って踊る

 

4.警察に追われ、また振り出しに

 

1.ベルト式大量生産

現代も車工場などにみられるベルト方式、フォード社が車の生産にはじめて採用し、車の大量生産を可能にしたことで有名である。「モダン・タイムス」では、チャップリンが工員として、ベルト式を採用した工場で働いており、休む間もなく流れてくるものに翻弄される。

チャップリンはまさに「自分の意思で、自分の動きを制御できない」状態になるのである。

休む間もなく同じ動き(ネジを締める動き)を続けた結果、けいれんしたようにその動きばかり繰り返すことになる。「自分の意思で、自分の動きを制御できない状態」の発展系といえよう。私たちはそのどうしようもなさに笑うのである。

 

2.刑務所へ入るために、無銭飲食を行う。

失業したチャップリンは、路頭に迷い、盗みをした少女の罪をかぶり刑務所へ入ろうとする。それでも捕まらず、とにかく捕まりたいので、とにかく豪勢なものを食べまくり、タバコをふかし、金持ちのように子供に売店から物を与える。

 

~貧困と喜劇のつながり~

貧困も喜劇と同じように「自分の意思で、自分の動きを制御できない状態」といえる。

チャップリンも生きるためには無銭飲食をし、刑務所へ入るという選択肢しかない。

貧困は、知識やお金のなさによって自由な選択を奪われるのだ。

たとえばお金のために「働きたくない劣悪な環境」で働いたり、

消費税が少しでも上がれば、そのために食べるものも自由に食べられなくなる。

貧困者は自分の意思ではなく、周りの影響によって動かされる。

このように「貧困」の本質と「喜劇」の本質はとても似ているところがある。

 

3.少女に仕事を紹介され、唄って踊る。

チャップリンは、意図せずとはいえ盗みを働いた少女を助けようとし、少女はチャップリンに感謝していた。少女は自身が働いていたレストランの仕事を紹介され、ウェイターの仕事につくがうまくいかず、「それならなにか見世物ができるか?」と聞かれたチャップリンは「できる」と返事してしまう。そして、なにもないところから必死に生み出した見世物が大喝采を浴び、チャップリンに一筋の光がみえるのである。

 

~貧困からの脱出~

貧困に陥る理由には、技術や資格がないため、仕事に関して選択の自由がないことがある。

チャップリンは、学歴不問の仕事しかしていない。

その時、上記のシーンで見世物の才能という自分の中に技術的なものを発見したのである。これによってチャップリンは仕事選択の自由を得て、一筋の光、貧困からの脱出を感じる。

 

4.警察に追われ、また振り出しへ

一筋の光を発見したチャップリンと少女であったが、少女を追っていた警察がレストランに現れ、チャップリンは少女と共に警察から逃げる。そして、二人は振りだしに戻ってしまうのである。落ち込む少女にチャップリンは笑いかけ、どこへ続くかもわからない道を二人で仲良く進んでいき、映画は終わる。

 

~喜劇からの脱出~

喜劇は「自分の意思で自分の行動を制御できない」と話した。

「モダン・タイムス」のラストシーンは、チャップリンが自分の意思で「どこへ続くかもわからない道」を選択する。

このシーンで私たちは今までチャップリンが見せてくれた笑いではない、別の笑い(スマイル)を感じるのである。

このラストシーンで「モダン・タイムス」は「自分の意思で自分の行動を制御できない」喜劇の本質から抜け出したことで、喜劇でなくなったともいえるのだ。

 

 

~まとめ~

チャップリン映画は、貧困をえがいたものが多く、喜劇との親和性が高い。

チャップリンが「喜劇王」と呼ばれるのはそのためかもしれない。

さらにチャップリン映画の「貧困」は本当に貧困を知っているものにしかえがけない「貧困」である。

黄金狂時代(1925)では、雪山の小屋で食べるものに困り、自分の皮靴を煮て食べる。

チャップリン 犬の生活(1918)では、路上に転がる牛乳瓶のそこにあるミルクを犬になめさせる。

これら「本物の貧困」がチャップリン映画を現代まで語られる作品にさせているのかもしれない。

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「フェノミナン」映画評論。ジョントラボルタ演じるジョージから学ぶ、愛する人への接し方。

 

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(ネタバレあり)

 

フェノミナン」は、ジョントラボルタ演じるジョージが、誕生日の夜、空に強烈な光をみて倒れ、意識を取り戻した後から超常的な力を得る映画だ。

そして、そんなジョージには好きになった女性(レイス)がいるのだが、

そのレイスへの接し方が学ぶことが多すぎるくらい完璧なのだ!これは惚れる。

そこで、私の大好きな「フェノミナン」をジョージの好きな人との接し方から紹介していきたいと思う。

 

1.レイスの作ったイスを買いまくる(好きな人の作ったものの一番のファンになる)

 

2.レイスの子供を大事にする(好きな人の大事にしている人を大事にする)

 

3.誰がなんと言おうと、レイスを好きすぎる(他の人が下した好きな人への評価で好きな人を評価しない)

 

4.危機に瀕しても、レイスにあたらない(大変なときでも好きな人にあたらない)

 

5.レイスの心によりそう(好きな人の心によりそう)

 

 

1.レイスの作ったイスを買いまくる(好きな人の作ったものの一番のファンになる)

 

レイスはイスを制作しており、ジョージの車整備工場の前で売り出している。

そのイスはすわり心地が悪く誰も買わないが、ジョージはとにかくそのイスを買いまくる。

家中がイスだらけになって家に置けなくなっても買い続け、友人の家に置きまくる。

あるとき、レイスがジョージの家を突然訪れた際に、その大量のイスを発見してしまう。

売り切れていたのはジョージが買っていたからだと知り、ジョージに「お金は返す」と突き放すような言葉をかける。

そのときジョージは「君の作ったこのイスが好きなんだ」と説明する。

 

このジョージの言葉から学べるのは、

「好きな人がいたら、とにかくその人の作るもの(話すこととか)のファンになる」だ。

やっぱり人というのは、自分の生み出すものを愛してくれる人といるのが幸せだ。

そんな人が近くにいれば、人は存在を証明してもらえて、自己肯定感がグングン上がる。

 

 

 

2.レイスの子供を大事にする(好きな人の大事な人を大事にする)

 

レイスはシングルマザーで息子と娘が一人ずついる。レイスは前の夫と離婚したことから傷ついており、子供たちには傷つくような思いをさせまいと大事に守っている。

そんな子供たちをジョージは大切に扱う。子供だと見下さずに同じ目線で物事を語る。

 

このジョージの行動が言葉にするよりも難しい。人というのは興味を抱いてほしい相手が大事にしているものに対してどうしても嫉妬してしまう。なるべく自分に時間を割いてほしいからだ。よくパパと子供がママを奪い合うというのがほほえましく語られることがあるが、ママからすればあれは愛を与えなくてはいけない大きい子供が増えたようなものでかなり疲れる。うかつに好きなものの話すらできない。

ジョージの場合はレイス(好きな人)だけでなく、レイス(好きな人)の大事にするものまでも包み込むのだ。

 

 

3.誰がなんと言おうと、レイスを好きすぎる(他の人が下した好きな人への評価で好きな人を評価しない)

 

あるシーンで、ジョージの働いている車整備工場の仲間がジョージに対し、「どうしてあんなの(レイス)がいいんだ?」と質問し、

ジョージは「彼女がいいんだ」と返します。

その言葉を返したとき、ジョージは彼女の素晴らしさをイメージし、微笑みます。

レイスを好きな理由に説明的なものは一切ないのです。

ここで感動するのは、ジョージは他の人の評価で好きな人を選んでいないということです。

トロフィーワイフという言葉があるように、ある種の人は、人からの評価が高い人を交際相手に選ぶことがあります。

「好きだけど、あの人は友達に合わせられないからやめる」とか

「好きだけど、あの人は親に合わせられないからやめる」とかはよくあります。

そんな世界の中で、ジョージは自分の感覚で素晴らしいと思った人を好きになるのです。

そのジョージが放つ言葉は、レイス(相手)にとってこれ以上ない賛美の言葉なのです。

 

 

4.危機に瀕しても、レイスにあたらない(大変なときでも好きな人にあたらない)

 

ジョージは、超常的な力を得てしまったがために街中から気味悪がられるようになったり、次々と精神的な危機的状況におちいります。

そんなときでもジョージはレイスに不安定な心をぶつけたりはしません。

人というのは危機的状況におちいったときに器の大きさが出ます。

女性というのは出産や生理でホルモンバランスが崩れやすいですから、やはり常に安定しているような相手を望むことが多いようです。

ジョージは、ほとんど聖人君子のような落ち着きかたで自分に降りかかる危機を受け入れるのです。

 

 

5.レイスの心によりそう(好きな人の心によりそう)

 

ジョージはレイスがまだ離婚の傷で、人を好きになることが難しいときは無理に近づこうとはしません。レイスの心の準備ができるまで、とにかく待つのです。

そして、ここで一番難しいジョージの恋愛テクニックが、

「自分の意思を表明しながら、相手の心に寄り添う」というところです。

ジョージはレイスが悩んでいるとわかると、答えを急かしたりはしません。その中で「ずっと君が好きだ」という意思は表明するのです。

ただ相手の意見に賛同しているだけでは主体性のない人間のようで魅力がありません。

しかし、相手に自分の意見ばかり押し付けるのも相手を尊重しておらず関係は良くありません。

「相手の話をききつつ、自分の意見も伝える」というとっても難しい技術をやっているのです。

 

 

 

以上が、「フェノミナンにみる、ジョージの恋愛テクニック」です。

このジョージのコミュニケーションは、恋愛を恋愛というくくりで考えるべきではなく、人と人のコミュニケーションであるということを教えてくれます。

 

ぜひ「フェノミナン」をみて、ジョージの癒されるコミュニケーションに感動してください。

 

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