「マッドマックス 怒りのデスロード」評論~マズローの五段階欲求~(ネタバレあり)  

f:id:ningen2:20191014212237j:plain

www.youtube.com

~あらすじ~

 

核戦争後の荒廃した世界で、地下水の豊かな土地があり、イモータルジョーという男が独裁的なコロニーを形成していた。

そんなコロニーの中の部隊を指揮するフェリオサがジョーを裏切り、ジョーの女とともに「緑の地」を目指し、逃亡する。

ジョーは軍隊を指揮し、これを追いかける。

主人公であるマックスは彼らにとらえられ、血液バンクにされているので(荒廃した世界では血液も重要な資源)、ここにからんでくることになる。

 

マズローの5段階欲求~

f:id:ningen2:20191014212429j:plain



マズローの5段階欲求とは、マズローが5段階のピラミッドで示した人間の欲求です。

満たされると次の欲求へ移行するとされている。

「マッドマックス」は世界が荒廃しており、そんな世界では欲求がわかりやすくあらわれる。そして、マズローの5段階欲求と照らし合わせてみると、人々の欲求の変化がわかりやすい。

 

 1.フュリオサ

 

2.マックス

 

3.ニュークス

 

 1.フュリオサ

フュリオサは、ジョーを裏切り、彼の妻たちをトラックに乗せ「緑の地(グリーンプレイス)」へ向かう。

妻たちは今の環境(ジョーの与える環境)が安全ではないと感じ、フュリオサの話す安全な土地「緑の地(グリーンプレイス)」へ向かうことにする。マズローの5段階欲求の「安全欲求」の階にあたる。

では、フュリオサも同じように「安全欲求」の階なのか?

一見すると、そのように思えるが、フュリオサは安全欲求の段階の、「自己実現」の段階にあると推測される。

あるシーンでフュリオサはマックスの問いに対し、

フュリオサ:彼女たち(ジョーの妻たち)は希望にかけた。

フュリオサ:私は過去を清算する。

 

妻たちは、安全欲求がみたされることに希望をかけ行動しているが、

フュリオサは、妻たちを「緑の地(グリーンプレイス)」へ連れて行き、救うことにがジョーへの復讐と考え、行動している。

これはまさに「自分の能力を最大限に生かしたい」という自分の思いから発生する動きである。

妻たちのなかには安全欲求が満たされない可能性があるとわかると、ジョーのもとへ戻ろうとするものがいたが、フュリオサが導くことで彼女たちも肝が据わっていくごとに、自己実現の領域にそれぞれ達していく。(社会的欲求や、承認欲求は仲間がいることで満たされている)

その中の一人は、「緑の地」で出会ったものが抱えていた種を守ることが自分の使命と感じ、守ろうとする行動をしていた。

最後にはフュリオサのジョーへの復讐は達成され、フュリオサは新たな目的のために生きるのである。

 

 2.マックス

元警官のマックスは、救えなかった命の幻覚に悩まされながら、荒野をかけていた。

マックスはウォーボーイズ(ニュークス)の輸血袋として車につながれ、フュリオサの逃走にからむことになる。

そのなかでマックスは、フュリオサからトラックを奪うことに成功し、トラックにあった水をがぶ飲みする(生理的欲求)

その後、トラックに乗り込み、フュリオサたちを置き去りにして発進しようとする(安全欲求)

だが、トラックはフュリオサの改造により、発進の際にとある順序を踏まなければ発進できない仕様になっており、仕方なくマックスはフュリオサたちと共に「緑の地」へと向かうことになる。その後、マックスはフュリオサたちと共闘し生き延び、「緑の地」のあった場所へ着く。そこには「緑の地」がすでになくなっていたために、フュリオサたちは安全な土地を求めて旅立つことにする。そのときにマックスはフュリオサから「一緒にくるなら歓迎する」と言われるが、マックスは共行こうとしない。

これは、マックスが救えなかった命に罪を感じ、「社会的欲求」や「承認欲求」を我慢することで自分への罰になると考えていたからではないだろうか。

だが、マックスは救えなかった命に罪を感じる男である。そのため、フュリオサたちの旅立った先に安全な場所はないと知っていたため、フュリオサたちを救うため、彼女たちに一時的に手を貸す。フュリオサたちは仲間になったと思ったようだが、マックスは一時的なものと考えていた。それでも、一時的にとはいえ「社会的欲求」や「承認欲求」が満たされることはマックスにとって幸福な時間であったのではないだろうか。

ラストシーンでは、安全な土地を手に入れたフュリオサたちを遠巻きにみつめ、去って行く。これはまたマックスがマックス自身に与えた罰による行動であろう。

 

3.ニュークス

ニュークスは、イモータンジョーを崇拝する「ウォーボーイズ」の一人である。

ウォーボーイズは元々、汚染によって短い命であり、その命に意味を持たせたいと動いている。ジョーはそんなウォーボーイズに、自らのために動けば「価値ある存在」だと教える。そのため、ジョーのためならば死にすら飛び込む。

死ぬことが恐ろしくない人間はいない。きっとウォーボーイズは目の前の恐ろしい死を忘れ去るために、あえて死に飛び込むのではないだろうか。

ニュークスは、「生理的欲求」や「安全欲求」などを忘れ去るように教えられている。

それはジョーの二つのセリフからみてとれる。

「水を求めるな、禁断症状で、生ける屍となるぞ」(人々にジョーが水を与える冒頭シーン)

「お前の魂は、英雄の館へ 俺が運んでやる」(妻の奪還に際し、ニュークスに語りかける)

「社会的欲求」は、ウォーボーイズにいることで満たされるので、

ニュークスを含めるウォーボーイズは「承認欲求」を持っている。(命をかけるときにウォーボーイズは「おれをみろ」と叫ぶ)

そんなウォーボーイズの一人ニュークスも、ジョーのためにフュリオサを追う。その中でジョー本人から妻たち奪還に際し「」と承認欲求を満たす機会を得る。だが、ニュークスは失敗し、ジョーから失望される。さらにはジョーの妻が死に、ニュークスは絶望する。彼は唯一の生きる目的であった欲求が満たされないことを感じてしまったのである。そんなとき、妻の一人がニュークスをみつけ、彼に仕事を与える。

ニュークスは満たされないと絶望した承認欲求が、ふたたび満たされる可能性を感じ、すべてをささげる。彼はラストシーンで「おれをみろ」と言うが、それは今までのようにジョーや仲間に向けたものではなく、自分をみつけてくれた女にたいして言った言葉であった。

 

 

~まとめ~

「マッドマックス 怒りのデスロード」は、ストーリーがシンプルで、それぞれの望みが全て物語の一点に集中しながら進んでいく。それがすさまじいエネルギーの凝縮としてみえるので、熱量のある作品にしあがっている。

今回挙げなかったキャラクターたちもそれぞれの欲求をもっており、それがきちんと描かれている。これはまぎれもない傑作である。

 

 

 

 

チャップリン監督作品「モダン・タイムス」映画評論~喜劇と貧困の親和性~

suwww.youtube.com

 

~あらすじ~

経済が不況で、失業者が街に溢れている。チャップリンは生きるために、働くが、大量生産を推奨する会社は人々を機械のように無機質なものとして扱う。

チャップリンはユーモアによってその社会を我々にわかりやすく笑い飛ばすのである。

 

 

~考察する前に、喜劇について~

喜劇というのは「キャラクターが自分の意思で自分の動きを制御できない」ことである。

たとえば、頭に物がぶつかってきて痛がったり(無表情で我慢できたら面白くない)

どっきりなどを仕掛けて、人が思い通りに驚いてくれたら面白いのは「相手が自分の意思で自分の動きを制御できない」からである。

このことを覚えておいてほしい。これからこれを踏まえて「モダン・タイムス」を考察していきたい。

 

1.ベルト式大量生産

 

2.デモに巻き込まれ、刑務所へ

 

3.少女に薦められ、唄って踊る

 

4.警察に追われ、また振り出しに

 

1.ベルト式大量生産

現代も車工場などにみられるベルト方式、フォード社が車の生産にはじめて採用し、車の大量生産を可能にしたことで有名である。「モダン・タイムス」では、チャップリンが工員として、ベルト式を採用した工場で働いており、休む間もなく流れてくるものに翻弄される。

チャップリンはまさに「自分の意思で、自分の動きを制御できない」状態になるのである。

休む間もなく同じ動き(ネジを締める動き)を続けた結果、けいれんしたようにその動きばかり繰り返すことになる。「自分の意思で、自分の動きを制御できない状態」の発展系といえよう。私たちはそのどうしようもなさに笑うのである。

 

2.刑務所へ入るために、無銭飲食を行う。

失業したチャップリンは、路頭に迷い、盗みをした少女の罪をかぶり刑務所へ入ろうとする。それでも捕まらず、とにかく捕まりたいので、とにかく豪勢なものを食べまくり、タバコをふかし、金持ちのように子供に売店から物を与える。

 

~貧困と喜劇のつながり~

貧困も喜劇と同じように「自分の意思で、自分の動きを制御できない状態」といえる。

チャップリンも生きるためには無銭飲食をし、刑務所へ入るという選択肢しかない。

貧困は、知識やお金のなさによって自由な選択を奪われるのだ。

たとえばお金のために「働きたくない劣悪な環境」で働いたり、

消費税が少しでも上がれば、そのために食べるものも自由に食べられなくなる。

貧困者は自分の意思ではなく、周りの影響によって動かされる。

このように「貧困」の本質と「喜劇」の本質はとても似ているところがある。

 

3.少女に仕事を紹介され、唄って踊る。

チャップリンは、意図せずとはいえ盗みを働いた少女を助けようとし、少女はチャップリンに感謝していた。少女は自身が働いていたレストランの仕事を紹介され、ウェイターの仕事につくがうまくいかず、「それならなにか見世物ができるか?」と聞かれたチャップリンは「できる」と返事してしまう。そして、なにもないところから必死に生み出した見世物が大喝采を浴び、チャップリンに一筋の光がみえるのである。

 

~貧困からの脱出~

貧困に陥る理由には、技術や資格がないため、仕事に関して選択の自由がないことがある。

チャップリンは、学歴不問の仕事しかしていない。

その時、上記のシーンで見世物の才能という自分の中に技術的なものを発見したのである。これによってチャップリンは仕事選択の自由を得て、一筋の光、貧困からの脱出を感じる。

 

4.警察に追われ、また振り出しへ

一筋の光を発見したチャップリンと少女であったが、少女を追っていた警察がレストランに現れ、チャップリンは少女と共に警察から逃げる。そして、二人は振りだしに戻ってしまうのである。落ち込む少女にチャップリンは笑いかけ、どこへ続くかもわからない道を二人で仲良く進んでいき、映画は終わる。

 

~喜劇からの脱出~

喜劇は「自分の意思で自分の行動を制御できない」と話した。

「モダン・タイムス」のラストシーンは、チャップリンが自分の意思で「どこへ続くかもわからない道」を選択する。

このシーンで私たちは今までチャップリンが見せてくれた笑いではない、別の笑い(スマイル)を感じるのである。

このラストシーンで「モダン・タイムス」は「自分の意思で自分の行動を制御できない」喜劇の本質から抜け出したことで、喜劇でなくなったともいえるのだ。

 

 

~まとめ~

チャップリン映画は、貧困をえがいたものが多く、喜劇との親和性が高い。

チャップリンが「喜劇王」と呼ばれるのはそのためかもしれない。

さらにチャップリン映画の「貧困」は本当に貧困を知っているものにしかえがけない「貧困」である。

黄金狂時代(1925)では、雪山の小屋で食べるものに困り、自分の皮靴を煮て食べる。

チャップリン 犬の生活(1918)では、路上に転がる牛乳瓶のそこにあるミルクを犬になめさせる。

これら「本物の貧困」がチャップリン映画を現代まで語られる作品にさせているのかもしれない。

f:id:ningen2:20191013151609j:plain

 

「フェノミナン」映画評論。ジョントラボルタ演じるジョージから学ぶ、愛する人への接し方。

 

www.youtube.com

 

(ネタバレあり)

 

フェノミナン」は、ジョントラボルタ演じるジョージが、誕生日の夜、空に強烈な光をみて倒れ、意識を取り戻した後から超常的な力を得る映画だ。

そして、そんなジョージには好きになった女性(レイス)がいるのだが、

そのレイスへの接し方が学ぶことが多すぎるくらい完璧なのだ!これは惚れる。

そこで、私の大好きな「フェノミナン」をジョージの好きな人との接し方から紹介していきたいと思う。

 

1.レイスの作ったイスを買いまくる(好きな人の作ったものの一番のファンになる)

 

2.レイスの子供を大事にする(好きな人の大事にしている人を大事にする)

 

3.誰がなんと言おうと、レイスを好きすぎる(他の人が下した好きな人への評価で好きな人を評価しない)

 

4.危機に瀕しても、レイスにあたらない(大変なときでも好きな人にあたらない)

 

5.レイスの心によりそう(好きな人の心によりそう)

 

 

1.レイスの作ったイスを買いまくる(好きな人の作ったものの一番のファンになる)

 

レイスはイスを制作しており、ジョージの車整備工場の前で売り出している。

そのイスはすわり心地が悪く誰も買わないが、ジョージはとにかくそのイスを買いまくる。

家中がイスだらけになって家に置けなくなっても買い続け、友人の家に置きまくる。

あるとき、レイスがジョージの家を突然訪れた際に、その大量のイスを発見してしまう。

売り切れていたのはジョージが買っていたからだと知り、ジョージに「お金は返す」と突き放すような言葉をかける。

そのときジョージは「君の作ったこのイスが好きなんだ」と説明する。

 

このジョージの言葉から学べるのは、

「好きな人がいたら、とにかくその人の作るもの(話すこととか)のファンになる」だ。

やっぱり人というのは、自分の生み出すものを愛してくれる人といるのが幸せだ。

そんな人が近くにいれば、人は存在を証明してもらえて、自己肯定感がグングン上がる。

 

 

 

2.レイスの子供を大事にする(好きな人の大事な人を大事にする)

 

レイスはシングルマザーで息子と娘が一人ずついる。レイスは前の夫と離婚したことから傷ついており、子供たちには傷つくような思いをさせまいと大事に守っている。

そんな子供たちをジョージは大切に扱う。子供だと見下さずに同じ目線で物事を語る。

 

このジョージの行動が言葉にするよりも難しい。人というのは興味を抱いてほしい相手が大事にしているものに対してどうしても嫉妬してしまう。なるべく自分に時間を割いてほしいからだ。よくパパと子供がママを奪い合うというのがほほえましく語られることがあるが、ママからすればあれは愛を与えなくてはいけない大きい子供が増えたようなものでかなり疲れる。うかつに好きなものの話すらできない。

ジョージの場合はレイス(好きな人)だけでなく、レイス(好きな人)の大事にするものまでも包み込むのだ。

 

 

3.誰がなんと言おうと、レイスを好きすぎる(他の人が下した好きな人への評価で好きな人を評価しない)

 

あるシーンで、ジョージの働いている車整備工場の仲間がジョージに対し、「どうしてあんなの(レイス)がいいんだ?」と質問し、

ジョージは「彼女がいいんだ」と返します。

その言葉を返したとき、ジョージは彼女の素晴らしさをイメージし、微笑みます。

レイスを好きな理由に説明的なものは一切ないのです。

ここで感動するのは、ジョージは他の人の評価で好きな人を選んでいないということです。

トロフィーワイフという言葉があるように、ある種の人は、人からの評価が高い人を交際相手に選ぶことがあります。

「好きだけど、あの人は友達に合わせられないからやめる」とか

「好きだけど、あの人は親に合わせられないからやめる」とかはよくあります。

そんな世界の中で、ジョージは自分の感覚で素晴らしいと思った人を好きになるのです。

そのジョージが放つ言葉は、レイス(相手)にとってこれ以上ない賛美の言葉なのです。

 

 

4.危機に瀕しても、レイスにあたらない(大変なときでも好きな人にあたらない)

 

ジョージは、超常的な力を得てしまったがために街中から気味悪がられるようになったり、次々と精神的な危機的状況におちいります。

そんなときでもジョージはレイスに不安定な心をぶつけたりはしません。

人というのは危機的状況におちいったときに器の大きさが出ます。

女性というのは出産や生理でホルモンバランスが崩れやすいですから、やはり常に安定しているような相手を望むことが多いようです。

ジョージは、ほとんど聖人君子のような落ち着きかたで自分に降りかかる危機を受け入れるのです。

 

 

5.レイスの心によりそう(好きな人の心によりそう)

 

ジョージはレイスがまだ離婚の傷で、人を好きになることが難しいときは無理に近づこうとはしません。レイスの心の準備ができるまで、とにかく待つのです。

そして、ここで一番難しいジョージの恋愛テクニックが、

「自分の意思を表明しながら、相手の心に寄り添う」というところです。

ジョージはレイスが悩んでいるとわかると、答えを急かしたりはしません。その中で「ずっと君が好きだ」という意思は表明するのです。

ただ相手の意見に賛同しているだけでは主体性のない人間のようで魅力がありません。

しかし、相手に自分の意見ばかり押し付けるのも相手を尊重しておらず関係は良くありません。

「相手の話をききつつ、自分の意見も伝える」というとっても難しい技術をやっているのです。

 

 

 

以上が、「フェノミナンにみる、ジョージの恋愛テクニック」です。

このジョージのコミュニケーションは、恋愛を恋愛というくくりで考えるべきではなく、人と人のコミュニケーションであるということを教えてくれます。

 

ぜひ「フェノミナン」をみて、ジョージの癒されるコミュニケーションに感動してください。

 

f:id:ningen2:20191012001654j:plain

 

 

フェノミナン [DVD]

フェノミナン [DVD]

 

 

 

おすすめ映画 私的オールタイムベスト10 最新版

 

 

10.プレイタイム

www.youtube.com

ジャック・タチ監督作品

「タチヴィル」という街を舞台にした、群衆喜劇。

圧倒的センス、作家主義の人々に好まれる圧倒的個性。

ジャック・タチはこの作品で破産したほどの金をかけた超大作。

しかし、同じ金をかけてもセンスが無ければこれは作れない。

センスある映画をみたければこれをみるべし。 

 

 

 

 

9.「キャロル」

www.youtube.com

原作は「太陽がいっぱい」「殺意の迷宮」のパトリシア・ハイスミスの小説。

監督はトット・ヘインズ。

これはただの女性同士の恋愛物語ではない。

この作品からみえるのは、婚約者との関係、子供との関係、恋人との関係、社会との関係の中で、どこまで自己を出してよいのかを模索する物語でもある。

内面をえぐりだされるような、愛の葛藤。

とにかく美しい映画で、映像をみているだけで酔いしれてしまう。

 

 

キャロル(字幕版)

キャロル(字幕版)

 

 

8.「浮雲

f:id:ningen2:20191009225906j:plain

 

アキカウリスマキ監督作品「浮雲

この作品は、現代の不況におちいる日本に通じるところがある作品である。

電車運転手の旦那とレストランのホールで働く妻。

その二人が突然不運に見舞われる。

その後とにかく不運に見舞われ続ける。

その中でもここに出てくる主人公たちは目に光を宿している。

私は悲しいときに不運な映画をみると元気がなくなるので見ないようにしていた。

だがこの作品をみたとき「不運な作品でも、人を元気にする作品があるのか」と驚いた。

 

 

 

7.「マッドマックス 怒りのデスロード」

www.youtube.com

核戦争後の荒廃した世界に住む人々の物語である。

とにかくおバカで、ぶっとんでいて、強烈な作品だ。

シンプルなストーリー展開なので、伝えたいことがストレートに伝わってくる。

荒廃した世界で、人は心も荒廃していくのか・・・。

熱くなること間違いなし。

 

 

 

6.「モダンタイムズ」

www.youtube.com

チャップリン監督作品「モダンタイムズ」

物の大量生産によって仕事は機械的になり、効率第一となり、人間も機械の一部として扱われる。

そんな大量生産社会をチャップリンが笑い飛ばす。

「人間とはなんだろう」という難しそうな問いを、この作品は答えてくれる。

 

 

 

5.「500日のサマー」

www.youtube.com

「ギフテッド」のマーク・ウェブ監督作品。

これは傑作である。間違いない。

その理由は、この作品をみた男女の意見で、

男側は作品の男に賛同し、

女側は作品の女に賛同することが多いからだ。

それはつまりどちらも納得できる「男側の意見」と「女側の意見」がきちんと盛り込まれているということだ。

だいたいのこういう作品というのは、男女どちらかの異性への妄想というものがあり、どちらか一方が「こんな女いない」とか「こんな男いない」とかになりがちだ。

そういう妄想が無く、現実的な感じがするのに映画として面白いというのはすごい。

そして、ズーイーデシャネルが日本人の好みな感じで可愛いのも見どころだ。

 

 

 

4.「グランドブタペストホテル」

 

 

www.youtube.com

 

 「犬ヶ島」「タージリン急行」などのウェスアンダーソン監督作品。

オシャレで、映画の中にリズムがあり、気づいた時にはウェスアンダーソン独特の世界に引き込まれている。

ウェスアンダーソン作品は形としては喜劇である。それぞれの個性がぶつかり、みているこちらはつい笑ってしまう。

だが、チャップリンしかり喜劇というものは良く見ればとても難しい問題をあつかっていて、ウェスアンダーソン作品もそのような難しい問題をあつかっている。

それなのにここまで明るく、人間の心によりそってくる、そして童心にかえるような作品は多くは無い。

 

 

 

3.「平成狸合戦ぽんぽこ

www.youtube.com

「ほたるの墓」「かぐや姫の物語」の高畑勲監督作品

私は何度見てもこの作品で号泣してしまう。

この作品で流す涙は、他の作品で流れる涙とは別のものに感じる。

人間に生きる場所をおいやられた狸の物語。

と思いがちだが、高畑勲は狸だけの話ではなく、

自然に住む生き物たち全て、そして人間にも関わりのある話だということを伝えている。

作中で人間たちは自然破壊を狸の言葉に耳もかさず続けるが、

人間たちはそれが自分たちにかかわりのあることだと思っていない。

しかし、最後にはこれが私たちにかかわりのあることだと感じることだろう。

 

 

 

2.「夜になるまえに」

www.youtube.com

原作はキューバレイナルド・アレナスの自伝小説「夜になる前に」

監督は「バスキア」「潜水服は蝶の夢をみる」のジュリアン・シュナーベル

キューバといえば、チェ・ゲバラが有名であり、革命も美化されて伝えられている。

この作品は、カストロ政権下で、作者がホモセクシャルを理由に著作を発売禁止にされるなどの弾圧などを色彩豊かに伝えてくる。

そして、理不尽な弾圧を受け続けても、なお作家であり、ホモセクシャルであったアレナスに、自分でいることの美しさと葛藤をみせられる。

私はこの作品でキューバという国に興味を抱くようになった。

これ以上、詩的な作品を私は知らない。

 

 

夜になるまえに

夜になるまえに

 

 

1.「フェノミナン」

www.youtube.com

誕生日の夜、車修理工のジョージは空にまばゆい光をみる。

それからジョージは超常的な力を手に入れる。

公開当時、日本ではSFとして売り出されたため、SFだと思ってみにいった人達が多くおり、評価は低かった。

だが、私にとってこの作品は今までみた作品の中で1番である。

それはこのジョントラボルタ演じるジョージが大好きだからである。

力を得て、ジョージに対する周りの目線は変化する。

しかし、ジョージは力を得ても不思議なことになにも変わらない。

愛すべきジョージであり続ける。

力を得て、哲学的なことも考えられるようになったジョージ。

しかし、最後まで彼の言葉は超常的な力を手に入れる前となんら変わらなかった。

それはつまり彼が「大事なもの」というものを力を手に入れる前から知っていたということだ。

少し話はそれるが、私は、「子供よりも大人のほうが大事なことをわかっている」というのを信じていない。子供は大事なことをわかっているが、言葉に出せないだけなのだ。言葉に出せないというだけで、馬鹿だとかそんな風に大人は言う。

ジョージもそのような存在だと私は思う。

彼は「大事なもの」をわかっている。

人をなにができるかだけで判断することの愚かしさを教えてくれる。

そして、人とどんな風に話せば幸せかを、この作品は教えてくれるのである。

 

フェノミナン [DVD]

フェノミナン [DVD]

 

 

ジャック・タチ監督作品 映画「プレイタイム」について(ネタバレ無し)

 

「プレイタイム」は天才ジャック・タチが全財産をかけて作った喜劇作品である。

www.youtube.com

 「プレイタイム」は興業的には成功せず、ジャック・タチはかなりの負債を負うことになる。

 興業的に失敗したのは、前作「ぼくのおじさん」でそのモダンで先進的なセンスが大爆発し、世界に名を知らしめたのだが、この「プレイタイム」ではそこで得た資金でも足らぬほどの金を使い、存分にジャック・タチの力を注いだ結果、あまりにも時代を先行しすぎていて世界がついていけなかったからだろう。

「タチ・ヴィル」と呼ばれる街をまるごと作ったという驚愕の逸話を知ると、映画をみるまえからジャック・タチの完璧主義に笑ってしまう。

 

 さて、「プレイタイム」の内容を説明したいが、まずはジャック・タチ作品を説明しなければならない。

「ぼくの伯父さんの休暇」からジャック・タチ作品には、定番キャラクターである「小さい帽子とパイプをくわえ、レインコートと丈の足りないズボンを着た、のっぽで無口な人物、ユロ氏」がでてくる。

www.youtube.com

 視聴者は、ユロ氏が様々な場所であたふたする姿をみて笑うのだ。

 

「プレイタイム」もそんな「ユロ氏」が登場する作品である。

 しかし「ぼくの伯父さんの休暇」「ぼくの伯父さん」のようにユロ氏を追いかけるようなものではなく、「プレイタイム」は「タチ・ヴィル」という街を描いているといえる。「ユロ氏」は「タチ・ヴィル」にいたから映るだけなのだ。

 

どんな作品かを問われれば、

「道に面した喫茶店で、外の様子を眺めているような作品」と言いたい。

 

 今の映画の大衆的な主流は、作品がどれだけ感情移入できるかである。

 ゴットファーザーで顔だけの演技が注目され、それによって「どのように感情移入させるか」を映画人は考えてきた。

 感情移入させることを目的にした作品は、それをみている人が、主人公と敵対するものにたいしては「怒り」を感じ、「なんてやつだ」と作品に干渉しようとさせるまでに至る。

 この流れを進んでいくと、現在、映画館にある3D上映や4DXへの進化にみられるような自分が体感することを突き詰めたものになるのである。

 

 その流れの中にあって、「道に面した喫茶店で、外の様子を眺めているような作品」はまったく逆の流れをもっている。

 私たちはガラスの向こうの人々に干渉することができないことをわかっている。

 私たちは、その人々がおりなす群像劇をただ見守る。

 電車や、街中で人々のほほえましい姿をみかけたり、全面ガラス張りに気づかずに前進し頭をぶつける友人を笑ったことはないだろうか?

 そんなとき、現代ではSNSなどに発信している人もいるようである。

 そのような楽しみを「プレイタイム」は提供してくれる。

 なじみのない楽しみ方であるがゆえに、感情移入させる作品(ハリウッド的作品とも呼ぼうか)になれた人は、楽しみ方がわからず、最初は面白みを感じることができないだろう。だが、このような作品は、頭から離れず、ふとしたときに思い出すことが多い。

「ああいう人がいたよ」と友人に話したくなるような、映画でみたことを実体験の一部として話せるようになる作品なのである。

 f:id:ningen2:20191013212648j:plain

               つづく(機会があれば)