芸術は存在の証明

バンプオブチキンの音楽が「存在の証明」だという話をしました。

ningen2.hatenablog.com

よく考えると、芸術そのものが「存在の証明」なのではないでしょうか。

 

私の芸術のはじまりは、誰にも気づいてもらえないという思い。

私の存在を証明し、誰かに気づいてもらうということ。

 

芸術は、物事を説明するという意味を持つ。

つまり「存在の証明」

なんの存在を証明するかは、人それぞれだ。

広告によって、商品の素晴らしさの証明をする人もいる。

農業によって、生きていくためには食べなければいけないという証明をする人もいる。

数学によって、ある視点からみれば、世界は理論だって動いていて美しいと思えるということを証明する人もいる。

 

では、私はなにを証明する?

 

「私の思い、気づきを人に知ってもらいたい」

今も、この思いは変わっていないのかもしれない。

芸術は孤独な仕事だ。自分ひとりで満足できず、誰かに見返りを求めるのは、よくないのではと思ったこともあった。

しかし、この「人に知ってもらいたい」という思いは、

見返りを求めている行為ではなく、

新しい美、風景、技術の発見を一人占めするのは、悪い気がしてしまうからだ。

だから、私は誰かに発信するのだろう。

見返りというより、誰か喜んでくれる人がいるんじゃないか?という思い。

これが見返りか・・?(笑) うーん。

 

存在の証明をするときは、場所を選ばないといけない。

私の場合は、仕事を「農業」にしている。

そこから得た発見を芸術に昇華させ「存在の証明」を果たす。

芸術というのは、リトマス紙のようなものだ。

それ単体では、無味無臭

どこに生きているかというのは大事な問題だ。

なるべくなら、意味があると思える芸術を作りたい。

だから私は「自然」というものを選ぶ。

「自然」ならば、よっぽど人間が進化してしまわない限り、

手放すことのないものだからだ。

人間が、原始的欲求(衣食住)を必要としないほど進化してしまったときのことは分からない。そんな全く違う人のことを考えられるほど、私の芸術に包容力を求めるつもりはない。

 

どんな仕事にも、芸術は存在するはずだ。

どこかの宮大工さんが言っていたけど、

「技も大事だけど、それだけでは技術者だ。芸術家にならないといけない」

とおっしゃっていた。

 

地に足をつけ、物を考える。

鳥のように飛べないからこそ、飛翔に夢をみる。

わたしは人間である。