「心」は「在る」のか

わたしたちは、もっとも興味のそそられる

「心」というものを見ることができない。

それでも「心」をみてみたくて、

好きな人の「行動」から「心」の形をおしはかる。

 

それは、ブラックホールを認識するときと同じ。

光を吸い込んでしまうから、形は見えない。

けれど、ブラックホールが「黒い星」と呼ばれているように

ブラックホールの周りには衛星が周回している。

なにもないはずのところを、星が回ってる。

「心」も同じで、みえなくても、みることができるはず。

 

「心はあるのか?」と「神がいるのか?」は同じ問い。わかることはない。

それでもわたしたちは「心」をみたがる。

 

言葉でどれほど「ツライ」と話しても、

それを続けてくる人がいる。

 

「わがままを言うな、こちらをコントロールして、楽したいだけだろう。本当はツラくなんかないのに」

 

彼らは、自分以外の「心」の存在を認めていない。

見えないのだから、無いのだと。


たしかに、弱者のふりをしてコントロールしようとする人物もいるだろう。

だからこそ、結局のところ、

相手の「心」というものを信じるしかないのかもしれない。

親しい人物同士だけは、そういう「心」を信じあう関係でありたい。

縁遠い人のことは、、

考えてしまうと疲れるから休み、休み考えよう。

 

わたしは「思う」という言葉をよく使う。

わたしにとって「心」は、実際に存在していると思えるもの。

数学的に計算したら存在してる。

脳科学的に調べたら、存在してる。

それを「在る」とよぶ。

 

なら、感じることを「在る」とよんではいけないのだろうか。

 まず存在を認めたい。

こじれた「在る」だとしても。

それを受け入れるかは、

別の話だ。次の話だ。